【書写】に関する知恵袋

【質問】
謗法厳禁、日蓮聖人の遺言として四箇の格言は命をかけて守る、それが日蓮正宗だそうですが、法主、僧はその限りにあらず。三十三世、日元上人は浅間神社に安置するご本尊を書写したという。宝暦十四年とあり脇書きも「本地久遠実成釋尊垂迹富士浅間宮」書き判は、ビジネスの英会話を語ると、「富士大石寺三十三嗣法 日元」だそうです。頂くほうもしっかりいただいています。書写の知恵袋というと、六代将軍徳川家宣公と正室の天英院殿の寄進を受けています。江戸常泉寺では、天英院殿より下賜された鬼子母神や水天を祠堂を建てて祀っていた記録があります、十三代将軍徳川家定公の正室、天璋院殿(篤姫)も大石寺に寄進しています。法義照らせば謗法、僧侶はOKということ?。特別なお計らいで、古い檀家(根檀家)などは、伊勢神宮にも参詣しますし、神札だって祀っています。代々の法主書写のご本尊を持つのが自慢とか、それでも教義逸脱、謗法、でも破門にはならない。法義に照らし、教義逸脱、謗法は、書写の知恵袋を分解していくと、創価学会のみ、それで破門。人を見て法を説く、ビジネスの英会話に考察を加えると、日蓮正宗の法義ということですね。
【解答】
白蓮阿闍梨日興は永仁六年(1298年)二月十五日に、南条氏の領地に隣接する石川孫三郎能忠が日蓮聖人御影堂・天照太神垂迹堂を建立寄進したのを期に、「重須の寺(北山本門寺)」に移った訳ですが、日蓮は元は天台宗の僧侶だったので、その弟子の日興も「本地垂迹説」の立場をとっていました。「本地垂迹説」と言うのは日本の神々の本地(本体)は仏教の仏菩薩であり、ビジネスの英会話について考えると、日本の衆生を救済する為に権りに神と姿を示現した「用」の存在だという思想です。去年の暮れに北山本門寺に行って創建当時の事を寺院関係者に聞いてきましたが、古くは大石寺にも天照太神垂迹堂があったみたいです。此れは日本国の神祇の最高神である天照太神を『法華経』の教主である久遠実成釈迦如来の垂迹とする事で、地域社会に根差した神祇信仰を仏教に上手く取り込んだと言えます。さて、大石寺33代日元が地元の浅間神社に「本地久遠実成釋尊垂迹富士浅間宮」と書かれた板本尊を納めたのも本地垂迹説によるものです。現在の日蓮正宗が「謗法」と定義するのは、時の貫首の納めた神社以外の神社に檀那が参詣する事をさしているそうです。昔、板本尊が祀られた神社の村落が殆どすべて大石寺の檀家になった時期もあったらしく、現在では全く無関係の神社になっていますが、神社の社の中に板本尊が在るのは、その当時の名残なのです。古い神社の社(やしろ)の内部には御神体と並んで板本尊が安置されていますから、当時は謗法でなくとも現在は謗法状態と化していると言えなくもないでしょう。天英院殿が六代将軍徳川家宣公と共に大石寺山門の建立に際して、富士山の巨木70本、黄金二千粒を寄進していますが、天英院殿は一応の信者であっても、天台宗寺院や浄土宗寺院にも寄進の記録がありますから、大石寺専属の檀家とは言えそうにありません。公儀の名目で布施を受けていますが、大石寺は「受派」の寺ですので、将軍や幕府の布施を拒否する事はできなかったのです。日蓮や日興の教学思想に照らせば、明らかに「謗施」を受けたことになるでしょう。まあ、幕府寺社奉行に睨まれたら、寺ごと破却されかねない時代でした。ビジネスの英会話を解説すると、天英院殿の姫君が夭折した際に、江戸の常泉寺が菩提所と定められたのを期に、幕府の庇護を受けて寺運は隆盛を極めたそうですが、予てから天英院殿が帰依していた鬼子母神堂や水天宮を天英院殿の要請で他宗寺院から勧請して祠堂を建立して祀っていたのは事実です。貴殿が言われるように、天璋院殿も大石寺には寄進していますが、彼女は寛永寺や増上寺にも多額の寄進をしていますから、これも法義に照らせば「謗施」を受けていた事になるでしょう。相手が権力者である場合には、とても恐ろしくて「謗法厳戒」は言えなかったのでしょう。上記の「本地垂迹説」に基つく法主の神社への板本尊奉納の件は「謗法」とは言えないまでも、その他の行為は日蓮や日興の流儀に照らせば「謗法」と言えそうです。書写の知恵袋から考察していくと、しかし、それぞれの時代に、それが合法か非法かの判断は「唯受一人血脈相承」を受けた法主の裁量に委ねられており、御都合次第で「謗法」になったり、ならなかったりと複雑怪奇です。要するに日蓮正宗では歴代法主は「蓮祖聖人のもぬけられたる」存在であるから、地上に於ける本佛日蓮の代務者であり、その意向に逆らう行為一般が「謗法」と看做されているようです。法主に逆らえば「謗法」、素直に相談すれば、格別のお慈悲により免罪されるようです。伝統的な権威権力には、めっぽう弱く、創価学会等のような新しい信徒団体には尊大な態度をとるのでしょう。【補足への回答】大石寺には「霊宝お虫祓い大法要」という儀式があり、御宝蔵という土蔵から大石寺に伝わる曼荼羅や文書が取りだされて客殿で公開されています。しかし、未だに学会一般から公開の要望のある重要文書の学術調査を頑として拒み続けています。北山本門寺・小泉久遠寺・保田妙本寺等が心よく重要資料を学術調査に供される態度とは真逆に、大石寺が学術調査を拒む理由は、バレては困る重大な瑕疵が秘蔵されているように思えてなりません。保田妙本寺の吉濱文書には、新田卿阿闍梨日目関係の文書が残っていますが、それらは折り紙つきの本物です。どうやら富士門流内での「大石寺正嫡説」も怪しくなってきたようです。【rsdm825氏へ】恐らく、日興が南部実長を謗法とした最大の理由は、書写の知恵袋が教えてくることは、彼が民部阿闍梨日向に師匠を鞍替えした事が最大の要因だったと思います。また、鎌倉方の大檀那の神社参詣が公然と行われていた事実を見れば、日興が必ずしも身延山の別当職にあったとは言い難い面もあります。日興の事績は末流達によって相当に潤色されていますから、今後の資料調査の進展次第によっては「日興上人身延離山史」も大きく塗り替えられる可能性を孕んでいます。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1146871866
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